2006. 2. 12.の説教より
「 神の確かな約束 」
ヘブライ人への手紙 6章1−20節
今日1節・2節ですが、こういうことが言われています。「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」初歩的なことを学んでばかりいるようではダメだというのです。しかし、わたしたちの日常生活の中では、初歩的なことがらというのは、むしろ、大切にしなければならないこととなのではないでしょうか。初歩的なことがらというのは、基本的なことがらとも言えるからです。基本的なことがらを見失ってしまいますと、たとえ、間違った方向に行っていたとしても、間違っていることさえ気づかなくなってしまうからです。わたし自身は、保育のことについてはまったくの素人ですが、保育のことを考えるときには、保育を養護と教育とに分け、そこでいうところの教育とは、生きる力を養うと言いますか、身につけさせることとして考え、その生きる力を養うことができるような、乳幼児一人ひとりとの関わりがもてる内容となっているかどうかという視点で見るようにしています。ちなみに、生きる力を養う関わりといいますのは、特別なことではまったくなく、ミルクを飲ませるときに、オムツを交換する時に、その子の目を見て、「おいしい」とか、「気持ちよくなったね」といったような言葉をかけることで、その子との間に、「ぼくのことを、わたしのことを考えてくれている人がいるんだ。」といった信頼関係を築くことなわけです。その信頼関係を築くことができるかどうかで、その子が大きくなってからの心の発達を大きく左右するということが言われているからです。ですから、もし、子どもの顔も見ないで、機械的にミルクが飲まされるようなことがなされていたとしたら、それはもうそこには教育はないわけですので、保育はないということになるのです。家庭であれば、テレビを見るために、子どもを静かにさせる手段のひとつとしてミルクが飲まされていたとすれば、そこには血の通う育児はないということになります。そのように、初歩的なこと、基本的なことがというのは、重要なことがらとなる場合が多いのではないかと思われるのです。また、そのことは、わたしたちの信仰においても言えることではないかと考えられるのですが、それが、どういうわけか、このところでは、離れるべきこと、捨て去るべきこととして語られているわけです。
これは、どういうことなのだろうか、ということを考えてみますとき、10節以下ですが、「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」と語られていますように、もし、信仰をもっているというならば、それなりに相応しい在り方があるはずではないか、生き方をするはずではないかということを語るために、あえてそのような言い方をしたのではないかということが考えられるのです。ですから、けっして、初歩的と言いますか、基本的なことがらなどには何の意味もないということから、そのような言い方をしているのではなくて、そこから、一歩でも、二歩でも進み出て、できるところのことをすべきではないか、ということからそのような言い方をしているものと考えられるわけです。実際、わたしたちの間でもよくあることではないかと思われるのですが、よく、「わたしなどはまだまだ」とか、「もう少し相応しくなったら、そのときには」とかいうことを言ってしまったり、そういう言葉を耳にすることもあるのではないかと思われるのですが、そういうふうに考えたり言ったりしているということなど、まさに、初歩的なところに止まっているということになるのではないかと思われるのです。しかし、はたしてどうなのでしょうか。わたしこそ相応しいと言えるときなど、いつまで経ってもこないのではないでしょうか。よく、教会に来ない理由として、「もう少し立派な人間になったら」ということを言う方がいますが、それと同じで、教会に来るのに相応しいと言えるような「立派な人間になれる」ときなどないと考えられるからです。ましてや、わたしたちの在り方が、生き方が、その行為が、神様の御前に相応しいと言える状態になったらできるということなどないのではないかと考えられるのです。むしろ、神様の御前にも、他の人の前にも相応しいものではないけれども、また、相応しいものとはなれないけれども、今、できるところのことを、たとえ、どんなに小さな事でもするだけという在り方のほうが現実的ではないかと思われるのです。今までにも何回となく申し上げてきたことですが、どんなに小さな力しかもっていなくても、どんなに小さなことしかできなくても、今、とにかくできることを神様に用いていただけるように差し出して行くだけという在り方こそが、わたしたちにとっては、まさに相応しい在り方と言えるのではないかと思うのです。神様が、わたしたちが差し出したものを豊かに信じてです。また、そのように、わたしたちがその持っているところのものを差し出すことがなければ、そのような小さなものを、取るに足りない物を差し出しても何の足しにもならないからといって差し出すことがなければ、何も生まれてこないのではないか、何も始まらないからです。
ところで、先ほどの9節・10節ですが、そこでは、このように語られていたのでした。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」「神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」とです。つまり、神様は、わたしたちが神様を信じているがためにしたことをお忘れにならないということです。たとえどんなに小さなことであったとしてもです。また、そうでなければ、そもそもわたしたちにできることなど、神様の御前には些細なことばかりですので、わたしたちにできることなど神様に覚えていただけるはずがないわけです。しかし、神様が、わたしたちのすることを、たとえ、どんなに些細なことでも、いつまでも覚えていてくださるということは、わたしたちにとってほんとうに感謝なことではないでしょうか。それならば、今、それなりにできることがあるならば、そのできることをするということが、神様の御前にまさに相応しい、わたしたちとしての在り方となるのではないかと思われるのです。
何と言いましても、わたしたちは神様からの恵を受けて、神様の恵の中に生きるものとされているものだからです。そのことを一つの譬えをもって語っているのが、7節・8節ということになるわけです。そこでは、このように語られています。「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」つまり、土地であるわたしたちは、度々土地の上に降る雨のように、神様の恵を受けているものとして、耕す人々に役立つ農作物をもたらすかどうかで、神様の祝福を受けることができるようになるかどうかが決まるというわけです。もし、茨やあざみを生えさせるようなことにでもなれば、もう誰の役にも立たないどうしようもない存在となってしまうというわけです。そのように、茨やあざみを生えさせてしまうことがないように、神様の恵を受けて豊かにされているうちにできることをやることがなければだめだというわけです。確かに、そうではないかと思うのです。畑でも、庭でもそうですが、後で、そのうちにと言って、少しでも、そのままほおっておきますと、雑草だらけとなり、始末に悪い状態になってしまうわけです。